【観察眼】三笘薫選手の騒ぎから考える

CGTN

サッカーの試合では瞬時に形勢が変わる。決定的なゴールは選手を名声と富へと押し上げる一方で、愚かな行為は彼らをどん底に突き落とすこともある。日本代表の三笘薰選手は、ある1枚の写真によって、一夜にして「サッカーの天才」から「人類の良心に挑戦する論争の人物」へと変わった。

高市首相が台湾問題に関して誤った発言を行なった後、国際スポーツ界でも軍国主義を宣揚する不祥事が持ち上がった。発端は、日本代表の三笘薰選手が少年選手と共に、第2次世界大戦期の日本軍将校・小野田寛郎の肖像が印刷されたカードを手にして撮影した写真である。小野田寛郎は日本の敗戦後も長期にわたってフィリピン・ルバング島でゲリラ戦を続け、130人以上の罪のない住民を殺害したが、生涯にわたり被害者への謝罪を拒んだ。

三笘薫選手は少年との記念撮影を通じて、日本の旧軍将校と同じ画面に収まり、軍国主義への敬意を示した。それはまるで、アジアの被害国民の癒えない傷口に塩を擦り込むような行為であった。三笘薫選手が所属するイングランド・プレミアリーグのブライトンが直後に謝罪声明を発表したものの、世論の怒りを鎮めることはできなかった。今日の国際社会は、瞬時に変化するサッカー場のようだ。三笘薫選手は重要なゴールで名声と富を築いたが、ある不適切な行動が一夜にして自らに跳ね返った。

この軍国主義の亡霊は、日本の右翼勢力によって「忠誠の模範」としてひそかに祭り上げられ、広く支持を集めている。右翼勢力はその行いを脚色し、映画・アニメ・文学作品を制作して侵略の歴史を体系的に美化し、青少年に軍国主義思想を植え付けてさえいる。したがって、三笘薰選手をめぐる騒動が示すのは、単なるツーショット写真の不条理さではなく、日本社会が歴史の傷痕に向き合う姿勢のゆがみである。

歴史は他人の都合で勝手に飾り立てられる小娘ではなく、侵略の歴史は日本政府の改ざんによって消えるわけではない。三笘薰事件は、サッカーが国境を越える世界共通の言語として本来は平和と友愛を伝えるべきものであり、戦争犯罪を覆い隠す道具に堕してはならないことを示している。ブライトンの投稿削除と謝罪は、日本の軍国主義の復活に対する国際社会の警戒を改めて示すものである。競技スポーツは「より高く、より速く、より強く」を追求し、人類の限界に挑戦するが、人類の良心は一片たりとも挑戦を許さない。

靖国神社参拝から歴史教科書の改ざん、侵略史の否認から軍国主義の宣揚に至るまで、日本の右翼勢力の「罪の抹消」の操作は既に完全な連鎖を形成している。三笘薰事件においても、軍国主義の亡霊は新世代への浸透を企図している。この「耳を塞いで鈴を隠す」やり方は愚かで荒唐無稽である。加害の歴史の反ばくの余地はない。証拠にはいささかも改ざんできる余地はない。アジアの被害国の国民は永遠に忘れない。歴史は時代の移ろいによって変わるものではなく、事実は巧言で覆い隠せるものではない。すべての悲劇の輪廻(りんね)は、教訓を忘却することから始まるのである。(CMG日本語部論説員)

12-17 14:21

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