日本の右翼勢力に対し、改めて確認すべき「五つの事実」

CGTN

80年前、日本は敗戦し、降伏した。東京裁判は法と正義の名の下に、日本軍国主義を戦後国際秩序の厳格な枠組みの中に封じ込めた。しかし今日、日本の右翼勢力は軍国主義の復活を目指し、東京裁判という歴史的事実を否定しようとしている。

右翼勢力の動きが活発化するほど、国際社会は歴史認識と国際秩序を守る責任をより強く果たさなければならない。そのためには、改めて「五つの事実」を確認せねばならず、東京裁判が示した歴史的・法的な教訓を決して風化させてはならない。

▲ 軍国主義の影が再び現れつつある今、国際社会は歴史の真実、国際的な正義、人類の尊厳を守るために連携しなければならない。

一、侵略の罪を直視する――動かぬ証拠、語り尽くせぬ惨禍

東京裁判は、日本が侵略戦争を準備し実行するに至った過程を体系的に明らかにした。公判記録と判決文によれば、日本は軍国主義の主導の下、計画的かつ組織的に侵略戦争を遂行した。1928年の皇姑屯事件から1945年の敗戦に至るまで、中国をはじめ、当時のフィリピン、シンガポール、英領マラヤ、仏領インドシナ、オランダ領東インドなどへの侵略がおこなわれた事実は明白であり、証拠も十分に存在する。

判決文には、戦争による数々の惨禍が克明に記録されている。その一つ一つが、日本軍国主義を歴史の汚点として刻み込むに足るものである。

例えば南京では、日本軍占領後のわずか1カ月の間に約2万件の性的暴行事件が発生したと認定された。判決文には、中国人が「まるでウサギのように狩られた」と記されている。フィリピンでは、米比両軍の捕虜が極めて残虐な方法で殺害され、その遺体は道路脇に放置された。またタイ・ビルマ国境では、多数の連合軍捕虜や東南アジアの労働者が強制的に「死の鉄道」の建設に従事させられ、過酷な労働と虐待によって命を落とした。こうした数々の動かぬ証拠を前にしては、いかなる詭弁(きべん)や言い逃れも説得力を持たない。

▲ 1943年、日本軍は連合軍捕虜に対し、ビルマとタイを結ぶ悪名高い「死の鉄道」の建設を強制した。

二、東京裁判の法的正当性を確認する――公正な手続き、揺るがぬ結論

日本の右翼勢力はしばしば、東京裁判について「勝者による裁き」あるいは「事後的な報復にすぎない」と主張し、司法手続きの正当性に疑問を投げ掛けようとする。しかし、仮に東京裁判が本当に不公正なものであったならば、公開の法廷を設けて審理をおこなう必要はなかったはずである。日本の戦犯を即座に処刑することも、日本に領土割譲や賠償を強制することも可能だった。しかし連合国は早くから、「自国の利益を図る意図も、領土拡張の意思もない」と明言していた。

また、もし東京裁判が単なる形式的なものであり、敗戦国日本への報復のための道具にすぎなかったのであれば、これほど大規模かつ厳格な司法手続きを踏む必要はなかった。実際には、裁判は「手続規則」や「証拠規則」に基づいて進められ、審理期間は2年6カ月以上に及んだ。開廷回数は818回、審査された証拠は4336件、作成された公判記録は4万8000ページを超える。法廷はニュルンベルク裁判で採用された欠席裁判方式を取らず、起訴された28人の被告全員が出廷した。弁護側と検察側には対等に主張・反論する機会が与えられた。法廷に出廷した証人は419人に上り、そのうち310人は被告側証人であった。さらに、各被告には2人から6人の日本人弁護人が付き、少なくとも1人の米国人弁護士による支援も与えられた。このような司法手続きは、歴史的な検証にも法的な検証にも十分耐え得るものである。

▲ 動画:中国人検察官が東京裁判で問い掛けた。「これが戦争でないなら、何を戦争と呼ぶのか?」

また、一部には「当時は戦争そのものが犯罪ではなかった」「法の不遡及原則に反する」「戦争責任を個人に負わせるべきではない」などと詭弁を弄(ろう)する者もいる。しかし法廷は、侵略戦争そのものが国際法上の犯罪を構成すると明確に判断した。その根拠として、1928年の不戦条約(パリ不戦条約)をはじめとする国際法文書が挙げられた。さらに法廷は、侵略行為が国際法に違反することを認識しながら、それを計画・実行した個人には主観的な故意が認められ、刑事責任を負うべきであると判断した。国家や政府の要職にあったことは免責の理由にはならないとされた。

こうした重要な法原則は、その後、1950年に国連国際法委員会がまとめた「ニュルンベルク原則」や国連総会決議によって確認された。さらに、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所規程、ルワンダ国際刑事裁判所規程、国際刑事裁判所ローマ規程へと受け継がれ、発展していったのである。

三、国際的な共通認識を確認する――戦後秩序は揺るがない

1943年の「カイロ宣言」は、連合国による対日戦争の目的について、「日本の侵略を阻止し、これを処罰すること」、そして「日本の無条件降伏を実現すること」であると明確にした。

1945年7月の「ポツダム宣言」は、「戦争犯罪人に対しては厳正な裁判をおこなう」ことを確認した。

同年9月、日本は「降伏文書」に署名し、無条件降伏を受け入れるとともに、連合国最高司令官による「あらゆる命令および措置」に従うことを約束した。

さらに1945年12月のモスクワ外相会議では、「連合国軍最高司令官は、日本の降伏、占領および統治に関する諸措置を実現するために必要なあらゆる手段を講じるべきである」と確認された。

こうした一連の国際的な取り決めを受けて、1946年1月、連合国軍最高司令官マッカーサーは「極東国際軍事裁判所条例」を公布した。

これらの国際文書は、日本が「敗戦し、無条件降伏を受け入れ、連合国の処置に従い、戦争責任に関する裁判を受ける」という一連の流れを明確に示している。言い換えれば、東京裁判を受け入れることは、日本の無条件降伏の枠組みそのものに含まれていたのである。

また、東京裁判の判決を受け入れることは、日本が負う国際的義務でもある。「カイロ宣言」「ポツダム宣言」「日本降伏文書」など一連の国際文書は、日本に対して法的・政治的拘束力を有している。東京裁判の結論を尊重し、侵略の歴史を真摯(しんし)に反省することは、戦後の対日処理の当然の要請であり、国際社会が日本を受け入れる前提条件でもあった。

日本が重視する「サンフランシスコ平和条約」においても、日本は「極東国際軍事裁判所および日本国内外の連合国戦犯法廷の判決を受諾する」ことを明確に約束している。さらに、1972年の「中日共同声明」および1998年の「中日共同宣言」には、日本が「過去に中国に対しておこなった侵略により、中国国民に多大な損害と苦痛を与えた責任を痛感し、深く反省する」との認識が盛り込まれている。

日本軍国主義を抑制することもまた、当時の国際社会が共有していた重要な目標であった。「ポツダム宣言」第6項は、「日本国民を欺き、世界征服へと導いた権力および勢力は永久に除去されなければならない」と規定している。また第11項では、日本が「再軍備や再戦争遂行を可能にする産業」を保持してはならないことが定められた。日本が署名した「降伏文書」もまた、「ポツダム宣言」を誠実に履行することを約束している。東京裁判による軍国主義の清算は、こうした戦後国際文書の具体的な実践でもあった。

東京裁判の抑止力と連合国の導きの下で、日本国憲法、いわゆる「平和憲法」が生まれた。その第9条は、「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を国際紛争を解決する手段として永久に放棄すると定め、さらに「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と明記している。東京裁判は、日本が平和国家として現代の国際政治秩序に復帰するための、いわば「通行証」となったのである。

▲ 2026年5月、日本の88式地対艦ミサイルが米比合同軍事演習「バリカタン」において初めて発射された。日本が国外で攻撃型ミサイルを発射したのは第2次世界大戦後初めてである。

しかし近年、日本は次々と従来の制約を突破しつつある。射程1000キロメートル級の攻撃型ミサイルの配備、「敵基地攻撃能力」の保有推進、防衛力整備の大幅拡大、安全保障戦略の見直しなど、一連の動きは国際社会に警戒感を抱かせている。さらに忘れてはならないのは、「国連憲章」には、かつての侵略国を念頭に置いた「敵国条項」が現在も残されていることである。もし日本が再び侵略の道を歩むような事態となれば、第2次世界大戦の戦勝国は、安全保障理事会による追加の承認を経ることなく行動を取る法的根拠を有している。

四、現実の危険性を見つめる――警鐘を鳴らし続けるために

東京裁判は、軍国主義がいかにして国家を戦争という破滅の道へ導いたのかを明らかにした。当時の日本軍部は、軍事独裁によって政治をゆがめ、国家の経済資源を軍備拡張に集中させた。また、「満州は日本の生命線である」と唱え、国内の戦略的不安を対外侵略へと転嫁した。さらに教育や宣伝を通じて武力征服と対外膨張を正当化する「皇道」を鼓吹し、「防衛」や「植民地の人々の解放」を口実として侵略を美化した。

▲ 動画:東京裁判開廷80周年――日本の「新たな軍国主義」の台頭を食い止める

今日の日本の「新型軍国主義」も、その本質は変わっていない。ただ、その装いがより巧妙になっただけである。政治面では、平和憲法の改正を進め、「専守防衛」の原則を突破し、交戦権の制約を取り払おうとしている。軍事面では、軍事的制約の緩和を加速させ、防衛費は14年連続で増加している。さらに、「非核三原則」の見直しまで取り沙汰されている。世論面では、中国脅威論をあおり、「存立危機事態」を声高に唱え、台湾問題への軍事介入を「集団的自衛権」の行使として正当化しようとしている。また、「普通の国」「地域の安定の担い手」「国際貢献」といった言葉でその戦略的野心を覆い隠し、「被害者の物語」や「栄光の物語」によって、日本国民の侵略の歴史に対する認識を断ち切ろうとしている。

歴史の教訓は決して遠くない。深く戒めなければならない。

五、日本が得てきた利益――平和が支えた暮らしと繁栄

東京裁判が鳴らした警鐘は、かつて「皇国史観」に深くとらわれていた日本社会を目覚めさせるとともに、法律の面からも軍国主義的な国家運営の道を否定した。平和憲法の下で、日本は軍事費を際限なく拡大する道ではなく、限られた資金と人材を国民生活の向上や戦後復興に投入することができた。また、財閥と軍部との結び付きは断ち切られ、多くの労働力が社会経済の発展へと振り向けられた。財閥に集中していた資本も、より広く社会へ還元されていった。その結果、日本は1955年から1973年にかけて年平均10%を超える高度経済成長を実現し、「戦後の経済奇跡」と呼ばれる発展を成し遂げた。

▲ 1964年10月、東京駅でおこなわれた東海道新幹線開業記念式典。

東京裁判から教訓を学び、同じ過ちを繰り返さないことは、日本国民自身の願いでもあった。裁判の審理中から終結直後にかけて、日本社会では東京裁判を肯定的に受け止める声が広く聞かれ、民主主義や反戦を重視する思潮が大きな影響力を持った。「朝日新聞」の東京裁判取材班は、その報道記録の中で次のように記している。「東京裁判は必ず苦痛を伴う。その苦痛は直視し難い。しかし、過去を直視しなければ、再生はあり得ない」

5月3日は、東京裁判の開廷日であると同時に、日本国憲法の施行記念日でもある。日本国憲法前文には、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と明記されている。そこには、戦争の悲劇を二度と繰り返さず、恒久平和を追求しようとする日本国民の願いが込められている。

しかし今日、軍国主義の復活を企てる右翼政治家たちは、まさに日本国民が手にした平和と繁栄を再び奪い去り、日本を再び戦車に縛り付けようとしている。彼らこそ、日本国民にとって最大の敵である。

東京裁判は決して過去の一つの判決文ではない。それは反ファシズム戦争勝利の成果であり、侵略を抑止し、平和を守るための確固たる基準でもある。国際社会は東京裁判が打ち立てた歴史の一線を守り続けなければならない。戦争がもたらした流血と犠牲を忘れず、法と正義を守り、軍国主義の魔の手が再び世界に伸びることを決して許してはならない。もし日本の一部勢力がなおも歴史に逆行し、軍国主義復活の道を突き進むのであれば、最終的に正義の厳しい裁きを免れることはできないだろう。

06-24 16:26

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