


大連市旅順博物館で公開中の明朝崇禎帝による琉球国王冊封の勅諭についての解釈が、中国と日本との間で論争になっている。争点は、「明諭琉球国勅」の内容の解釈と東アジア外交史における琉球王国の位置づけだ。
沖縄地元紙の「八重山日報」は昨年末、長崎純心大学の石井望准教授による、「勅書は日本が琉球を統治していた事実を明の皇帝が正式に認めた内容だ」との主張を紹介する記事を公式サイトに掲載した。一方、CGTN日本語部は中国の学者による反論を伝える記事を配信した。その記事に対し、「八重山日報」の1月9日付けの紙面に、石井准教授による再反論が掲載された。
「明諭琉球国勅」および准教授の再反論をめぐり、CGTN日本語部は12日、中国社会科学院日本研究所で琉球史と中琉日関係の研究を行う陳剛助理研究員を取材した。
中国社会科学院日本研究所・陳剛助理研究員
■勅諭は日本倭寇の再侵攻に防備せよと注意を喚起
陳助理研究員は勅諭について、「貴重な文化財であり、明から清へと500年も続いた中国と琉球の宗藩関係の力強い証だ」と述べ、明から清へと受け継がれてきた「懐柔遠人(武力ではなく徳により遠方の者を服属させる)」「親誠恵容(親しみと誠意により、恩恵を与えて寛容に接する)」という中国の対周辺国外交の重要な理念を示したものと評した。また、勅諭は「明が薩摩による琉球統治の承認ではなく、倭寇が再び攻めてくることに備えをせよと琉球に警戒を促した」と解釈でき、勅諭を歪曲解釈する動きは日本の「植民史観」の現れだと指摘した。
陳助理研究員によると、勅諭はそれまでの明朝による琉球冊封勅諭の基本的な礼制および文章作成の慣例を踏襲しており、まず前国王の功績を総括して肯定し、次いで新国王に対して職務上の要求を提起するものであり、中国と琉球の宗藩関係の政治倫理を鮮明に体現している。
大連旅順博物館で公開中の「明諭琉球国勅」
陳助理研究員は、「勅諭の中の『隣侮(りんぶ)』や『堵安(とあん)』などの語は、明の皇帝が故琉球国王の尚寧の功績を肯定する文脈で出現した。勅諭の『褆身以率励臣民,飭政而輯寧邦域,綢繆牖戶,保固藩籬(身を律して臣民を励まし導き、政治を整えて国の領域を安寧に導け。災いが起こる前に万全の準備を整え、国の守りをしっかり固めよ)』は、新任の琉球国王に対し、防備を強化し、倭寇が再び侵攻してくることを警戒するよう戒める文句だ。これは、明朝が倭寇による琉球侵攻に対する防備意識を常に持っていたことを示す」と指摘し、「薩摩藩による琉球合併への『高い評価』ではない」と、石井准教授の説を全面否定した。
陳助理研究員は石井准教授の主張について、史料の背景や文脈を考慮せず、明の皇帝と琉球国王との関係を論じる際に、主語を幾度となくすり替えているとも指摘。その一例として、明の皇帝が尚寧王の国政運営に対する高い評価を、「薩摩藩による琉球統治」への評価に置き換えることで、「薩摩藩が琉球を併合した後、すぐに安定した統治に至ったことを明の皇帝が高く評価していたことを示す内容」という「似て非なる解釈」を導き出したと指摘。さらにそこから一歩踏み込んで、勅諭が「明による薩摩藩の琉球統治の正式な承認」を体現しているという「荒唐無稽」な解釈まで引き出したと分析した。
■中琉の宗藩関係の土台は宗法と礼制 「武力」ではない
1月9日付けの「八重山日報」によると、石井准教授は中国の冊封体制について、「(明は)海外のポルトガル、オランダ、バチカン、琉球などに対しては武力で勝てないため、中華思想により『属国』と呼ぶに過ぎず、事実はただの外国であり、外務省(礼部)の業務とされた」と解説した。
陳助理研究員はこれについて、明朝の冊封体制において、琉球は、「郡王(ぐんおう)」という政治的名分を授けられており、明との宗藩関係は形式だけでなく実質も伴い、厳格な礼制および制度的規範が存在していたと指摘した。
陳助理研究員は、「明の冊封体制において、琉球が朝鮮や安南(ベトナム)などと並び、同等の地位にあったことは、東アジアの学界では広く共有された認識であり、基本的な常識でもある。しかし、石井准教授はそうしたことを顧みずに、意図的に『琉球は(明にとって)武力で勝てない相手』と強調した。中琉間の宗藩関係は最初から『武力で勝てるか否か』を基準としておらず、宗法、礼制という制度的枠組みの下で、経済、貿易、文化交流を通じて築かれてきた関係であったという歴史を抹消しようとしている」と石井准教授の姿勢に違和感を示した。
琉球画師・中山照屋筑登之親雲上による「琉球貢船奉旨帰国図」(東京国立博物館所蔵)
陳助理研究員はまた、石井准教授は歴史的文脈を恣意的に断ち切り、古今の概念を混同しているとも指摘した。
陳助理研究員によれば、古代東アジアの冊封体制における「藩属国」という位置づけは、現代の主権国家の概念とは根本的に異なり、その関係性は現代の国家の外交部(外務省)が主権国家間の外交を対処する際の論理とは異なった。
また、明清時代の「礼部」を現代の「外務省」と同一視することも誤りであり、両者を対等なものと捉え、あるいは置き換えることはできない。明代の「礼部」には、藩属国の使節の接待や国王の冊封業務に加え、国家の礼制、儀礼、祭祀、科挙、学校教育など、幅広い職務があった。現代国家の外交部(外務省)の職能とは大きく異なる。
清代の画家・朱鶴年(1760-1834)「奉使琉球図巻」第14幅「冊封宣詔図」(沖縄県立博物館・美術館所蔵)
■「薩摩による琉球統治」は近代日本の植民侵略の正当化が背景
では、薩摩藩は琉球王国を実効支配していたのか。陳助理研究員は、それを実証する史料は確認できないと指摘した。
日本の学界では、薩摩藩が1611年に提示した「掟十五条」、続いて1613年に提示した「掟十一条」が有力な証拠とされているが、陳助理研究員は以下の点に着眼して、否定する見解を示した。
第一に、これらの規定はあくまで薩摩藩が一方的に提示した要求や構想にすぎず、統治関係を確定する政治文書ではない。琉球王国側の署名や承認は一切なく、薩摩藩の独善的な規則にとどまっている。規定は琉球王国を法的に拘束する力も実効性もなく、琉球は薩摩藩の貿易要請をしばしば拒否し、薩摩に対して、貿易行為が中琉朝貢貿易のルールに従うよう求めていたことが確認されている。
第二に、1609年以降の日琉関係の構造から見れば、琉球は日本の中央政権(江戸幕府)によって朝鮮と同様、「外交使節を交わす隣国」として扱われていた。一方、薩摩藩は江戸幕府成立期に、幕府と敵対した経緯があり、外様大名として幕府から常に抑圧されてきた。その軍事力や対外貿易は幕府により厳しく制限され、藩の財政も長年にわたり慢性的な赤字状態にあった。「薩摩による琉球統治」を主張するには、政治的正当性も経済力もないことは明白だった。
第三に、「薩摩藩による琉球統治」という見解や、それに関連する史料の再発掘などは、明治維新以後、薩摩出身者が明治政府内で高い地位を占め、特に歴史編纂などを掌握した後に作り上げたものだ。その過程で、多くの誇張や虚偽が含まれていた。
近代日本は、自ら琉球王国を滅ぼした罪を隠蔽し、植民地侵略行為を美化するために、「1609年の薩摩侵攻以降、薩摩藩が琉球を実効支配していた」という「物語」を作り上げた。そして、日琉間の通常の交流に関する史実や文書を恣意に曲解し、「実効支配」の証拠だと主張してきた。近代日本の侵略者たちはさらに、現代の国際法における「実効支配」の理論を引き合いに、中国(明・清)と琉球の宗藩関係を断ち切り、自らの琉球植民地化に「合法性」を与えようとしてきた。
陳助理研究員は、第二次世界大戦の終結から80年が過ぎたが、「植民史観」が日本で消えたことはなく、その暗い影は現在もなお、沖縄の政治、経済、社会、人権などに負の影響を与え続けており、沖縄に内在する力による発展を深刻に阻害しているとも指摘した。(取材・構成:王小燕、校正:鈴木)
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