平和の花・紫金草が後世に伝えること②「平和は作るもの」〜団員たちの思い

KANKANインタビュー

2025年3月27日 2つの紫金草合唱団による平和コンサートがが南京で開催

2025年春、中国の抗日戦争勝利80周年の今年、懺悔と平和への祈りを込めた組曲『紫金草物語』を歌う「紫金草合唱団」が、13回目の海外公演を南京で行いました。

東京、千葉、宮城、関西、金沢から集まった団員たちは、平均75歳。ほとんどの人が戦後生まれで、会社員や教師、タクシードライバー、主婦など、ごく普通の暮らしを営んでいます。しかしその背景には、父が戦死した人、親族がBC級戦犯に認定された人、中国で残留孤児になった人など、それぞれの戦争の重い記憶がありました。

彼らはどんな思いで、日本の加害を伝える組曲『紫金草物語』を歌い続けているのでしょうか。団員やサポーターにお話を伺いました。

■中村昭一さん「紫金草は人間性を取り戻すシンボル」

2025年3月、南京の平和コンサートで指揮をとる中村昭一さん

「紫金草の花は、蛮行を働いた人間が、人間性を取り戻すための象徴」

そう語るのは、今回の訪中団団長兼指揮を務めた中村昭一さん(71歳)。元高校音楽教師の中村さんは、先輩の誘いで『紫金草物語』と出会い、2001年の南京初公演にも参加。以来、10回以上も南京を訪れています。

「シベリア菜の花 花だいこん オオアラセイトウ 諸葛菜 二月蘭」

歌詞を口ずさみながら、「最初のフレーズを聞いた瞬間に、この作品はほかとは違うと感じた」という中村さん。強く心惹かれた理由についてこう話しました。

「1980年代末から、日本では旧日本軍の犯した罪を都合よく解釈する空気が強まり、強い危機感を感じていました。そんな中でこの作品に出会ったのです。メロディーも美しく、平和を祈念する名曲の一つだと思っています」

中村さんは、25年前に発足した金沢紫金草合唱団の創始メンバーです。約25人の主要メンバーは、現在も月2回の練習を続け、「不忘歴史、面向未来(歴史を忘れず、未来に向かう)」をモットーに、毎年演奏会を開催しています。

■大森和子さん「加害者は歴史を忘れてはならぬ」

大森和子さん

「南京の安全区を攻めたのは、金沢の第9師団でした。本当にごめんなさい」

金沢紫金草合唱団創設メンバーの大森和子さん(78歳)は、訪問先の南京大虐殺遇難同胞記念館で、ボランティアの青年に深々と頭を下げ、手を合わせていました。

大森さんは高校時代、日本史の教師から「歴史は支配者と非支配者で見方が異なる」と教わったことがきっかけとなり、侵略された側の視点に関心を持つようになりました。

「加害者は歴史を忘れてはいけません。忘れれば、相手と手をつないで語り合うこともできません。この歌は私自身のために歌っています。怠け者の私が楽な方に流されないように」

今、南京に咲く紫金草の中には、日本で咲いた紫金草の種が南京に戻り、咲いた花もあります。南京から紫金草を日本に持ち帰った山口誠太郎氏の息子・裕(故人)の呼びかけによる「里帰り紫金草」です。

大森さんは「紫金草は南京に里帰りして、野の花から特別な花になりました」 と語り、紫の小さな花をいつまでも見つめていました。

■今井治江さん「南京の少女を演じて」

今井治江さん

元看護師の今井治江さん(78歳)は、一年前の心臓の大手術を乗り越え、今春の南京公演に参加しました。紫金草を知ったきっかけは、絵本『むらさき花だいこん』。合唱団入団後に最初に演じた役は、南京大虐殺を生き延びた「中国人少女」でした。

15年前の南京公演では、その役のモデルとなった夏淑琴さん(1929年生まれ)と初対面。夏さんは今井さんをぎゅっと抱きしめてくれたそうです。言葉が通じなくても、心は通じ合えると知った瞬間でした。

「少女の身に何が起きたのか、しっかり知らなければいけない」。歴史の真実に向き合うようになった今井さんが知ったのは、目を覆いたくなるような事実でした。

「南京で虐殺が起きたときに、日本では提灯行列をやっていた。『勝った、勝った』と、父や母も先頭だって行列に参加していました。当時の写真を見ると、紫金山や城壁には日章旗が立っていて、これはひどい!これはない!という思いに駆られました」

10回以上南京を訪問している今井さんですが、記念館を訪れるたびに「日本人だと分かったらどう思われるか」と複雑な気持ちになるといいます。そして、そのたびに「生きている限り、この事実を伝え続けていかなければ」と決意を新たにしています。

南京の子供たちは幼い頃から虐殺の歴史を学びます。その様子を見た今井さんは、歴史を知らない日本の子どもたちとの認識の差に焦りを感じたと言います。しかし一方で、今回の訪問での中国の若者たちの交流を通して、「共に生きる平和な未来」への希望や、「人間が人間として生きる」ことの意味を強く感じることができたと語りました。

■佐藤康尚さん「私たち世代の責任」

東京から参加した佐藤康尚さん(72歳)は元中学校教師。父親が20歳で特攻隊員として召集され、母方の伯父はベトナムでの捕虜虐殺の罪に問われ、BC級戦犯として処されたという佐藤さんは、ずっと平和への強い思いを抱いてきました。『紫金草物語』に次いで制作された『再生の大地』(新中国による戦犯改造を描いた作品)を歌う合唱団では、副団長を務めています。

合唱団の活動を通じて、「加害の問題に触れることの難しさ」を実感した佐藤さんですが、かつて、広島で外国人から聞いたある言葉が忘れられないと言います。

「加害の問題を語らずに原爆の被害だけを訴えても受け入れられない」――その言葉は、佐藤さんの歴史認識を変えるきっかけとなりました。

そして、「中国を訪れるたびに、旧日本軍の犯罪行為について学び直している。私たちの世代は、戦争と関わりのある最後の世代かもしれない。歴史認識を正し、友好的な環境を作る責任があると感じている」と語りました。

さらに、紫金草が南京ではピースフラワーとして大事にされていることに着眼し、佐藤さんは「行政や市民が一体となって平和の継承に取り組む姿勢に学ぶべき点が多い」と訪中の感想を述べました。

■坂東弘美さん「父に代わって贖罪を」

侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館・周峰館長(右)に資料を手渡す坂東弘美さん(左)

2001年の南京初演で司会を務めたフリーアナウンサーの坂東弘美さん(77歳、名古屋在住)。今回もサポーターとして参加。

父親が中国への侵略戦争に参加したという坂東さんは長年、侵略戦争に加担した父に代わって贖罪の思いを胸に、ホストファミリーとして中国人留学生を受け入れたり、中国の高校で指導したりと、さまざまな交流活動を続けてきました。

2012年に開かれた「南京大虐殺名古屋証言集会」の様子。向かって左側が夏淑琴さん

2012年、名古屋と南京の友好都市締結35周年の年、南京大虐殺を否定する河村市長(当時)の発言によって中日の関係がこじれた中でも、坂東さんは南京大虐殺の生存者・夏淑琴さんを招いた「証言集会」の実行委員をし、友好記念コンサートを成功させるなど、有志と共に活動を続けました。

そんな坂東さんは戦後80年が経ったいま、「罪は消せないけれど、謝ることはできる。二度と繰り返さないという贖罪の心を持ち、平和のために共に歩もうと言うことはできる。紫金草が枯れることなく、穏やかな交流が続くよう願っています」と語りました。

■「平和は自分たちの手で」

紫金草合唱団の団員たちには、共通する信念があります。それは、「平和は自分たちの手で作ることができる。戦争という過ちは努力次第で乗り越えられる」、そして、「日中は仲良くでなければならない」ということです。

2025年3月28日、南京理工大学で陳列された交流パネル展を眺める紫金草合唱団の皆さん

坂東さんは「平和は与えられるものではなく、コツコツと作っていくもの」だと話し、大森さんは「人間は失敗しても立ち直れる。それを信じたい」と語りました。今井さんは「南京の子どもたちから希望をもらった。共に生きる未来を作りたい」と力を込めました。

「戦後80年に寄せる思いは」と求められた中村団長は、「日本国民はなぜあの戦争を止められなかったのか?これは日本国民全体の大問題であり、世界の問題でもある。教訓を共有し、過ちを繰り返さない知恵を働かせなければならない」と語りました。そして、こう強く訴えました。

「憲法第9条の『戦争放棄と戦力不保持』の原点を忘れてはいけない。日本は戦争の準備ではなく、平和の準備をするべきだ。隣人の中国と知恵を出し合って、仲良くやっていくこと。やっていけるし、また、やっていかねばならないことだと感じている」

では、南京の人々は、皆さんの思いを一体どう受け止めているのでしょうか。

次回つづく

(取材・構成:王小燕、校正:鳴海美紀)

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